2008.05.20

カテゴリー【特集】File.00

「炭都・美唄のおもいで散歩 序章」豊かな田園地帯が広がる美唄市。その礎となったのは、石炭産業の発展だった。大正から昭和の中期にかけて石炭は“黒いダイヤ”と呼ばれ、美唄に集う人々の笑顔を照らしていた。黒いダイヤが放った輝きを追って、かつての炭都・美唄の歩みを振り返る。

美唄に残る炭都の面影

春から初夏へと移り変わるころ、「ふるさとの見える丘展望台」から美唄市内を見渡すと、田植えを待つ水田がキラキラと水をたたえている。
 道内屈指の米どころ美唄は、その昔、石炭の都として全国にその名を轟かせていた。昭和30年代に全盛を極めた炭鉱産業の面影は今も街のあちこちに残っている。
 かつて日本で最大規模を誇った三菱美唄炭鉱跡地は、市民のゲレンデである美唄国設スキー場に姿を変えた。炭鉱に従事する家庭の子どもたちが通った旧栄小学校は、廃校となった後に世界的な彫刻家・安田侃氏の作品を展示する「アルテピアッツァ美唄」として再生した。激変する時代の波に揺られながらも21世紀までたどり着いた美唄の足跡をたどってみよう。

炭都・美唄の幕開け

三菱鉱堅坑

三菱鉱堅坑の堀さく工事(大正11年)

三菱炭鉱病院

当時にしてモダンなつくりの三菱炭鉱病院(大正11年)

明治6(1873)年、アメリカ人の地質学者B・S・ライマン氏が資源調査隊を率いて美唄市の前身である貝沼村を訪れた。翌年、調査隊が貝沼村の地層には豊富な石炭があることを発表すると、多くの財閥が競うように炭鉱開発に乗り出した。

大正に入り、当時の四大財閥を成していた三菱、三井が相次いで貝沼村の石炭産業に参入し、大規模な炭鉱施設や炭鉱住宅街を建設する。どこまで掘っても尽きることのない石炭は“黒いダイヤ”ともてはやされ、鉱山はまさに宝の山だった。「掘れば必ず富につながる――」。石炭景気に沸く貝沼村の人口は3万人を超え、大正15年に美唄町となる。

ところが、勢いを増すばかりと思われた美唄の石炭産業にも戦争は影を落とす。昭和6年から20年までの二度の大戦の時代には過度な増産と労働力不足に苦しめられた。やっと迎えた終戦、疲弊しきった国内産業を復興するために石炭の需要はさらに高まり、国は莫大な資産を投じ、美唄に再び好景気がもたらされることとなる。

シリーズで振り返る美唄の歩み

大運動会風景

美唄炭鉱の大運動会風景

戦後、石炭産業に追い風が吹いた美唄での暮らしは近代化が進み、商業や文化・芸術も発展し、豊かな時代がいつまでも続くと思われた。そして――。

今回から新たに始まった「炭都・美唄のおもいで散歩」は、今後シリーズでお届けします。炭鉱の街として輝いた全盛期からそこに訪れた斜陽の時代、そして新たなまちづくりに取り組む脱・炭鉱産業依存型の美唄誕生まで、わがまち美唄が歩んできた道のりを、みなさんと一緒にたどります。

参考文献 「美唄市百年史」「写真で見る美唄の20世紀」「美唄由来雑記」