書いても消しても粉が飛ぶ
危ない教育現場を救うダストレスチョーク
日本理化学工業のダストレスチョークは持ち手の部分が薄い皮膜で覆われているため手が白くなる心配もない
昭和12(1937)年に東京で設立された日本理化学工業株式会社の前身は、なんでも取り扱う雑貨商「大山商店」だった。戦前のある日、初代社長の大山要蔵(現会長・大山泰弘氏父)が常連客である教師に「粉の出ないアメリカ製チョークを売ってほしい」と依頼されたことからすべてが始まる。
当時のチョーク(白墨)は石こう製だった。比重が軽いため、黒板に書いても消しても石こうの粉が飛び散り、教師はそれを直接吸い込み、前列に座る子どもたちの頭にまで降りかかる。このままでは人体への影響もあると危惧した現場の教師がいち早く海外の情報を聞きつけ、大山商店に相談したというのもうなづける話だ。
大切な教育現場での悩みを解決しようと一念発起した要蔵氏はそこから苦心を重ね、昭和12年、衛生無害の炭酸カルシウムを原料とし、なおかつ粉が飛ばない「ダストレスチョーク」の国産化に初めて成功した。ダストレスチョークは昭和28年に国内唯一の文部省あっせんチョークに指定され、それ以降は飛ぶ鳥を落とす勢いで生産が続けられた。
どちらもひかない真剣“雇用”勝負
少女たちの職場体験に現場は動揺
製造ラインを止めないようにてきぱきと働く美唄工場の社員たち。自分の仕事を守り抜く集中力が伝わってくる
昭和34年、当時東京にあった本社工場を近隣の養護学校の先生が訪ねてきた。知的障がいを持つ生徒を工場で雇ってほしいという。父からほぼ現場を任されていた大山泰弘さん(当時専務)は不安なあまり一度丁重に断ったが、生徒の未来を預かる先生もそう簡単にはあきらめなかった。
三度目の訪問時にはついに大山さんも、「雇わなくてもいいので職場体験だけでもさせてほしい」という先生の願いを聞き入れ、学校から2人の少女が1週間の期限付きでやってくることになった。
本人たちは初めての職場体験に大喜びだったが、受け入れる現場の社員の間には動揺が広がった。障がい者と働いたことがある者は一人もいない。一体何が起きるのか、どう接したらいいのか誰にもわからなかったのだ。
ところが蓋を開けてみると少女たちはラベル貼りの作業に没頭し、一心不乱に働いた。就業未経験者にありがちなはしゃいだり飽きたりさぼったりもしない。「お昼休みだよ」と声をかけられるまで休み時間も手を止めない、働くことを全うする少女たちの姿に、社員は少しずつ心を動かされていった。
甘えのきかない職場に
なぜ彼らは通ってくるのか
テレビや新聞、書籍など数々のマスコミで同社の取り組みが取り上げられた。障がい者雇用と実はもう一つの大きな切り口がある
少女たちの職場実習が終わる前日、大山さんのもとに社員が集まった。「自分たちが面倒を見るのであの2人を正社員にしてほしい」と全員一致の意向を伝えに来たのだという。上層部からの押しつけではなく、現場から上がってきた理解の声。昭和35年春、少女2人は日本理化学工業の正社員になった。このときから同社の障がい者雇用は始まり、1人、そしてまた1人と人数も増えていった。
働きたいという彼らは施設や自宅にいられないわけではない。甘えのきかない職場で無理に働く必要はなかった。それでもなぜ彼らは働きにくるのか大山さんはわからなかった。その答えを禅寺の導師が教えてくれた。
「大山さん、人の幸せとは4つある。人に愛されること、人にほめられること、人の役にたつこと、人から必要とされること。愛以外の3つの幸せは働くことによって得られるのです」
自分の行き場があり、仕事が待っている喜びこそが誰の人生にもはりを与える。2人の少女に始まる彼らの真剣な姿はこのことを教えてくれていたのだ。人生の、そして働く幸せに気づかされた大山さんは、今後も障がい者雇用を会社の使命とすることを決意し、積極的な雇用に乗り出した。
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昭和40年、障がい者がいきいきと働く日本理化学の川崎工場を時の労働大臣石田博英氏が視察に訪れた。後日経済新聞に大きく掲載されたその記事を真剣に見つめる人物がいた。前年の市長選に当選した美唄市長・沢田孝夫だった。沢田が日本理化学に熱いまなざしを注ぐのには切実な理由があった。美唄のヤマの火が、消える??。(中編に続く)


