2009.03.27

カテゴリー【特集】File.00

「故郷への思いをこめて、美唄の春を舞う 日本舞踊家 花柳鳴介 はなやぎなるすけ」 日本舞踊界きっての大流派、花柳流に籍を置く花柳鳴介さんは、美唄市の東明地区で産声を上げた。昭和30年代以降、炭鉱閉山で斜陽の一途をたどる故郷に活気を取り戻そうと数々の公演を企画し、美唄市民の尊敬と愛情を一身に集めている。2009年5月の「びばい桜まつり」でも鮮やかな夜桜と花火を背景に美唄に訪れた春の喜びを舞う。

杉村春子、長谷川一夫
昭和の名優に触れた芸の道

―美唄での少年時代の思い出は。

今の美唄市役所が建っている場所に小学校がありましたから、東明の家から4キロの道のりを通いました。吹雪のときは班長さんが年少の子を引き連れて馬そりに乗ったりして、それはもう昭和の日本映画さながらの世界でした。

―日本舞踊に目覚めたのはいつごろですか。

昭和20年に終戦を迎えて、復興のために日本中が石炭の増産を始めましたでしょう。もちろん美唄でも全盛期を迎えましてね、街中が活気にあふれていました。石炭会社も羽振りがよくて、従業員のために東京から超一流の芸人が出演する興行を呼び寄せてくれるんです。入場料も会社持ちでしたから、文学座の杉浦春子さんや長谷川一夫さん、山田五十鈴さんといったそうそうたる名優の踊りや演技をただで見ることができた、そういういい時代だったんです。

凛とした美しいたたずまい

この日はスーツ姿で。凛とした美しいたたずまいに目を奪われた

―本物の芸に触れて、自分もそちらの世界を目指そうと。

子ども心にですが、日本の文化や芸術を伝える側になってひとに喜んでもらえることをやりたいと。そこからいろいろ省きますが(笑)、16歳のときにボストンバック一つ持って上京して、花柳流の内弟子になりました。当時花柳流の家元は二代目の花柳寿輔(はなやぎじゅすけ)で、私は二代目と三代目に御仕えしました。

―23歳のときに三代目・花柳鳴介を襲名されますが、そもそも「花柳鳴介」とはどういう名前なのでしょう。

初代家元の高弟の一人に鳴介という人がいましてね、今も歌舞伎で上演されているような演目の振付や演出をしたと名前が残っています。一時名前が絶えていた時期を経て、昭和37年に三代目を襲名させていただきました。襲名の重圧を感じる以前に毎日が一生懸命で、がむしゃらに過ごしていたと思います。

里帰りで知った故郷の姿
本当の日本舞踊を普及させたい

美唄市の自宅にある稽古場

取材は美唄市の自宅にある稽古場で行われた。
扇子は何本お持ちですか?「200本くらいかな」

―入門後10年経ってから初めての里帰りをされました。

昭和30年代の後半から石炭の出番は無くなっていき、美唄は北海道の中でも一番早くに閉山が決まった街ですから、昭和42年に帰って来たときはショックでしたね。9万人近くいた人口が急激に減り、すっかり寂れてしまった美唄の街並を見たときのショックと言ったらないです。「これはなにか自分にできることをしなくては」という切羽詰まった気持ちに駆られて、そこから青年会議所のみなさんとも一緒になって考えていくようになりました。

―昭和44年に美唄市内に花柳流舞踊道場を開いたのも、「なにか自分にできること」の一つですね。

それまではわりと個人の趣味で自由に踊ったり、盆踊りや演歌に合わせて踊るのが日本舞踊だと思われていたところもあって、やはり本格的な日本舞踊を伝えたいという思いはありました。その頃住んでいた家の二階を稽古場にして、弟子を取り始めましてね。その流れは今でも続いています。

―日本舞踊を通じて伝えたいこととは。

やはり日本人が持ち続けて来た伝統の美しさ。日本舞踊には基本の型があり、弟子は師匠の動きを見て覚える。学ぶは“まねぶ”なんです。その型も長年かけて完成されたものですから、まずは型をしっかりと体に覚え込ませて、そこに心を注ぎ込んでいく。歌舞伎の登場人物と違い、日本舞踊では桜の精や鷺になったり、獅子などの伝説上の生き物を演じることもあります。それも型があるから演じられる。基本がとても大事なんです。

―ということは古典をひたすら守り続けることが肝心。

それがそうでもないからおもしろい(笑)。古典といっても、その時代に受け入れられるような形になら変えてもいい。例えば、中村勘三郎さんが平成中村座でニューヨーク公演をされたように、時代を映す演出を古典の中に組み込んでいってもいいんです(注:平成中村座のニューヨーク公演『夏祭浪花鑑』はNYPDに扮した現地スタッフが登場するなど斬新な演出で絶賛された)。

―意外なお話です。

さらに古典とは別に「創作」ができるのも日本舞踊の幅広いところです。後で詳しくお話する炭鉱殉職者のための「やすらぎの舞」は完全な創作舞踊になります。

多彩なコラボレーションで観客を魅了
“線香花火”を「さくら祭り」の花火へ

「高齢化社会が元気になるイベントもやってみたい」

「高齢化社会が元気になるイベントもやってみたい」

―昭和45年に始まり10回公演で踊り納めた「美唄をどり」とは。

京都の「都をどり」や東京の「東をどり」を意識して名付けた日本舞踊のお披露目の場です。衣装も道具も音楽もすべて東京からスタッフを引き連れて揃えた本格的な日本舞踊を美唄でも見られることをアピールしたかった。札幌からもずいぶん大勢の方が見に来てくださいまして、盛況のうちに終えることができました。

―昭和63年からは「VIVA逢フェスタNEXT-ONE」と題して、聖飢魔IIや札幌交響楽団などジャンルを超えたコラボレーションも。

ありがたいことに(デーモン)小暮君をはじめ、「一緒にやりましょう」という人との縁がつながりました。あちらはロックでこちらは舞踊で…と最初はとまどうこともありましたが、お客様にはひと味違った舞台をお届けできたのではないでしょうか。この同じ年に始めたのが、先ほどお話した「やすらぎの舞」です。戦後、美唄の全盛期を支えた炭鉱労働者の中には、外国籍の捕虜の方もたくさんおられました。不幸な事故が起きても彼らには弔ってくれる家族もなく、菩提寺にある過去帳に載っているのも氏名ではなく番号でね…それを見たらせめてもの思いで鎮魂の舞を捧げようと。踊りはすべて私の創作です。亡くなった方々の魂が天国にいく場面での振付は、札幌のクラシックバレエのプリマに依頼して、美しい心安らかなものに仕上げていただきました。

―誰にでもできることではない、すばらしい功績ばかりです。

我々がやっていることは線香花火のようなものです。一瞬ぱっと輝いて消えていく。大きなイベントをやった後はとりわけ「なにかを本当に始めなければいけないのはこれからなんだ」という焦りにも似た思いが強くなります。これからは美唄のことを外にアピールするようなイベントから美唄に暮らす方々が喜んでくださることを考えていきたい。その一例が平成13年から続けている5月の「桜舞と花火」の主催です。小さなイベントですが、お子さんやお孫さんの手をひいて楽しんでもらえたら嬉しいですね。

―一人の踊り手として満足のいく舞台とはどういうものですか。

舞台に出たら勝負は最初の2、3分。お客様を自分に惹きつけ、自分もその世界に入り込んでいく。自己満足だとは思いますが、やりきったと思えるのはこれまで3回あったかどうか。その1回が「やすらぎの舞」のときで、幕が下りてからしばらくの間は立ち上がることもできませんでした。周囲には「霊が降りてきた」なんて言われましたが(笑)。僕が美唄に生まれて、美唄で鎮魂の舞を踊ることができた幸せに実は自分自身がやすらぐような、そんな感覚でした。美唄にはとにかくどんな形でも元気になってもらいたいんです。和をもってまとまり、これからも一緒に美唄を盛り上げていきましょうね。

プロフィール

花柳鳴介/美唄市生まれ。16歳で単身上京し、人間国宝の二代目花柳寿輔の内弟子となる。1962年、三代目花柳鳴介を襲名。文化庁芸術祭優秀賞や北海道文化奨励賞など数々の賞を受賞。「美唄をどり」や炭鉱殉職者に捧げる「やすらぎの舞」など故郷美唄に根ざした活動に尽力する。美唄市民栄誉賞第一号。

花柳鳴介による「桜舞」と夜空に咲く花火の一夜!
「びばい桜まつり2009」

花柳鳴介による「桜舞」 花柳鳴介による「桜舞」
2009年5月9日(土)19:30~
【会場】

美唄市東明公園
無料バス運行(JR美唄駅前~東明公園間)

【お問い合わせ】

美唄観光物産協会 TEL 0126-63-0103